原始熊野信仰

 神道は大きく分けて三つの信仰で成り立っています。第一は山や海や巨木や奇岩など特定の自然物を「神の依代(よりしろ)とする信仰(自然神信仰)、第二は一族の祖先の御霊(みたま)を神とする信仰
(祖先神信仰)、第三は土地の神や農耕の神など水田稲作を起源とする信仰、これらの信仰が一つになって成立したのが神道です。一般に自然神信仰は狩猟や漁猟を生業 (なりわい)としていた人々の信仰(縄文人の信仰)、祖先神信仰は朝鮮半島から渡来した人々の信仰(弥生人の信仰)、土地の神や農耕の神などに対する信仰は水田稲作発祥の地、揚子江流域から台湾・沖縄本島を経由して伝えられた信仰と言われています。
 現在でこそ熊野三山は一体として捉えられていますが、元々は熊野川を御神体(神の依代)とする信仰(本宮)、那智の滝を御神体とする信仰(那智)、神倉山の「ごとびき岩」を神の依代 とする信仰(速玉)、それぞれルーツの異なる個別独立した自然神信仰でした。そこに祖先神信仰が流入してきて、本宮の神をスサノヲ命、那智の神をイザナミ命、速玉の神をイザナギ命、その他熊野の山々に鎮まる神々を祖先神信仰の神々に割り当てたため、それまで個別独立の自然神だった熊野の神々が、祖先神信仰の基に体系化され一体化されていったのです。熊野の神々が自然神的側面・祖先神的側面、その両面を持ちながらも自然神的色彩を色濃く残しているのは、こうした経緯があるからです。
また、熊野は修験道の聖地でもあります。修験道とは、自然神信仰と密教信仰が一つになった信仰で、修験者達は熊野の山奥に分け入り、那智の滝などの自然神(山の神)の前で読経し修行した。つまり、修験道を介して神道と密教が一体となった信仰、これが熊野信仰と言われる信仰です。


神仏習合

 私達日本人は神も拝めば、仏も拝みます。それは神と仏を一体の存在として捉え、神を拝むことは仏を拝むことでもあり、仏を拝むことは神を拝むことでもある、という意識が心の何処かにあるからです。それゆえ、神と仏を区別なく拝むことが出来るのです。このような信仰形態を神仏習合と言い、奈良時代には既に熊野ではこの信仰が成立していた。
 そして、平安時代中期になると本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)が登場する。本地垂迹説とは、仏教の立場から神と仏の関係を説いた理論で、それは辺土説に基づいて成立した。辺土説とは「我が国を釈迦の生誕地インドから遠く離れた辺土と位置付け、末法の辺土では、仏がそのまま現れても衆生を救うことが出来ない。そこで仏は方便をこらし、神に姿を変えて我が国に垂迹した」とする説で、その語源は法華経如来寿量品の本門(釈迦如来の教え)・迹門(人間釈迦の教え)にある。如来寿量品には釈迦如来(本地)が人間釈迦(垂迹)に姿を変えてこの世に現れ、人々にその教えを説いたと記されており、この関係が神仏にも適用され、仏を本地、神をその垂迹と位置付けた。熊野の神々を総称して熊野大権現(仏が神の姿で現れる)と言うのは、この説に由来する。
 神仏習合は、当初こそ仏教側がリードする形で進められたが、神は完全に仏の支配に属したわけではない。仏との接触の中で、神は次第にその独自性に目覚め、日本という場にかなった宗教へと変貌して行った。その契機となったのが蒙古襲来で、未曽有の国難を前に一気にナショナリズムが台頭した。それが神仏関係にも波及し、遠くにいる本地の仏よりも、身近に居て直接救いを垂れる神の方が重視されるようになる。そして、室町時代後期に吉田神道が登場し、反本地垂迹説(神主仏従説)を展開する。
 しかし、現在の我々にとって「神が先か、仏が先か」という議論は、どうでもよい議論であろう。現実には神も大切ならば、仏も大切なのである。これを神仏同位と言い、上述した経緯を辿りながら、日本人がこの考え方に至ったのは室町時代中頃と言われている。


浄土信仰

 熊野信仰が最も盛んだったのは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての約80年間、院政時代と言われる時代で、「蟻(あり)の熊野詣」という言葉が、当時の熊野の盛況振りを如実に示している。これは蟻が行列を作るように多くの人々が列をなして熊野古道を歩いていたという光景を描写した言葉で、法皇・上皇を始め多くの都人が熊野に参詣した。
この当時の熊野信仰を一言でいうと、本地垂迹説に基づく神仏習合信仰と浄土信仰が一体化した信仰ということになろう。我が国で浄土信仰が盛んになったのは平安時代中期以降、空也・源信などによって皇族・貴族だけでなく一般庶民の間にも広まった。よく浄土信仰の特質を表す言葉として「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」が使われるが、これは源信の「往生要集」冒頭の章名に由来し、穢れた現世(穢土)を厭(うと)い、浄土に往生することを希求するという意味です。浄土とは「仏の造った国」という意味で、阿弥陀如来の極楽浄土が有名だが、他にも釈迦如来の妙喜浄土(みょうきじょうど)、薬師如来の浄瑠璃浄土(じょうるりじょうど)、観音菩薩の補陀落浄土(ほだらくじょうど)などがある。
それではなぜ、この時代に浄土信仰が盛んになったのか、それは末法思想と深く関わっている。末法思想とは仏教の予言思想の一つで、釈迦の滅後1,000年を正法の時代、次の1,000年を像法の時代、その後を末法の時代と区分し、釈迦の教えが及ばなくなった末法には、仏法が正しく行われなくなり、世の中が乱れると予言されていました。その末法元年が我が国では1052年(永承7年)に当たるとされ、人々の間に不安が広まった。この時代は藤原氏の摂関政治が衰え、それに代わって武士が台頭しつつあった動乱期で、治安の乱れも著しく、仏教界の腐敗堕落も極限に達していた。つまり、末法思想と現実の社会情勢が一致しため、人々の不安は更に増大し、この不安から逃れるために浄土信仰が盛んに喧伝されるようになった。熊野とは「死者の霊の籠る所」という意味で、イザナミ命の埋葬地としても知られているように、古代の熊野は死後世界(黄泉国)の入口と考えられていた。それが浄土信仰の広まりにつれて、仏国浄土の入口へと変化していったのであろう。
熊野大権現とは熊野の山々に鎮まる神々の総称で、その中心が熊野牟須美大神(くまのむすびのおおかみ)、速玉之男大神(はやたまのをのおおかみ)、熊野家津御子大神(くまのけつみこのおおかみ)です。これらの神々と仏・菩薩の関係を下表に示すが、全て浄土と結び付いている。浄土は熊野灘の向こう、太平洋の彼方にあり、本宮・那智・速玉を巡ることで浄土を垣間見ることが出来るのではないか、そんな気持ちが人々を熊野に駆り立てたのであろう。

名称

本地仏

垂迹神

浄土

熊野本宮大社

阿弥陀如来

熊野家津御子大神(スサノヲ命)

極楽浄土

熊野那智大社

千手観音

熊野牟須美大神(イザナミ命)

補陀落浄土

熊野速玉大社

薬師如来

速玉之男大神(イザナギ命)

浄瑠璃浄土


 この考え方を受け継いだのが時宗の開祖一遍で、一遍は本宮証誠殿(しょうじょうでん)の前で阿弥陀如来の啓示を受け、熊野護符を配りながら全国を遊行し浄土信仰を広めていった。熊野護符とは烏文字(からすもじ)で書かれた熊野の神札(おふだ)で、後世、武士の起請文としても利用された。熊野の神々の前では嘘はつけないということであろう。


観音信仰

 新熊野神社は後白河法皇の仙洞御所、法住寺殿内に造られた神社で、後白河法皇邸の神棚が新熊野神社、仏壇が三十三間堂と理解すれば解り易い。それゆえ、三十三間堂の御本尊は千手観音、新熊野神社の主祭神はイザナミ命となっている。 千手観音は六観音(聖観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・准胝観音・千手観音)の一つで、正式名称を十一面千手千眼観音という。千手千眼とは千本の手の掌(てのひら)にそれぞれ一眼を持ち、1000の手と1000の眼で、全ての衆生を漏らさず救済しようとする観音菩薩の持つ一面「慈悲の力の広大さ」を千手観音で現している。
 三十三間堂には本尊の千手観音坐像を中心に、左右に500体ずつ、合計1000体の千手観音立像が安置されている。本尊の千手観音の一つ一つの手の上に千手観音が立っており、それが左右1000体の千手観音立像。そして、左右1000体の千手観音の手の上に、また千手観音が立っている。仏の救いの手が1000×1000×1000……と無限に広がっていることを、この配置で示している。これが法皇の求められた信仰の世界で、法皇は現世をイザナミ命の持つ「慈母の愛」に、来世を千手観音の持つ「無限の慈悲」に託されたのであろう。 観音菩薩は般若心経の冒頭にも登場する菩薩で、仏の智恵・仏の慈悲を象徴する菩薩です。地蔵菩薩と対をなし、その容姿から地蔵菩薩を男性、観音菩薩を女性と見ることが多い。熊野がイザナミ命=千手観音、天照大神=十一面観音としているのも、そうした理由からであろう。那智に隣接する青岸渡寺は西国三十三所の一番札所で、元々那智と青岸渡寺は一体だった。つまり、熊野の浄土信仰の中心地が本宮、観音信仰の中心地が那智だった。
 しかし、現在の我々にとって「神が先か、仏が先か」という議論は、どうでもよい議論であろう。現実には神も大切ならば、仏も大切なのである。これを神仏同位と言い、上述した経緯を辿りながら、日本人がこの考え方に至ったのは室町時代中頃と言われている。


熊野は日本人の信仰の原点

 キリスト教でもそうだが、神はあまり来世を語らない。一方、仏は来世を重視する。それは仏教の根底に輪廻の思想が流れているからであろう。「現世を神に、来世を仏に」という考え方は日本人の最もポピュラーな考え方で、それは「神と仏は一体の存在」という信仰がなければ成り立たない。また、日本人は「死に様」を重視する。それは「死に様」を現世の総決算、来世の始まりと捉えているからで、それを極端な形で示したのが武士道であろう。一般には武士道を儒教思想に由来するものと考えがちだが、武士道もまた「神と仏は一体の存在」という信仰がなければ成り立たない。つまり、長らく日本人の特質・美徳と考えられてきた多くのもの、それらは神仏習合信仰の上に成り立っていた。
 その神仏習合発祥の地が熊野で、熊野には神道の原点である自然神信仰と祖先神信仰、修験道、仏教その中でも浄土信仰と観音信仰、現在の日本人の信仰の原点となる信仰が全て揃っていた。鬱蒼とした大自然の中に神と仏が共存する世界、それが熊野である。



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