熊野信仰が最も盛んだったのは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての約80年間、院政時代と言われる時代で、「蟻(あり)の熊野詣」という言葉が、当時の熊野の盛況振りを如実に示している。これは蟻が行列を作るように多くの人々が列をなして熊野古道を歩いていたという光景を描写した言葉で、法皇・上皇を始め多くの都人が熊野に参詣した。
この当時の熊野信仰を一言でいうと、本地垂迹説に基づく神仏習合信仰と浄土信仰が一体化した信仰ということになろう。我が国で浄土信仰が盛んになったのは平安時代中期以降、空也・源信などによって皇族・貴族だけでなく一般庶民の間にも広まった。よく浄土信仰の特質を表す言葉として「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」が使われるが、これは源信の「往生要集」冒頭の章名に由来し、穢れた現世(穢土)を厭(うと)い、浄土に往生することを希求するという意味です。浄土とは「仏の造った国」という意味で、阿弥陀如来の極楽浄土が有名だが、他にも釈迦如来の妙喜浄土(みょうきじょうど)、薬師如来の浄瑠璃浄土(じょうるりじょうど)、観音菩薩の補陀落浄土(ほだらくじょうど)などがある。
それではなぜ、この時代に浄土信仰が盛んになったのか、それは末法思想と深く関わっている。末法思想とは仏教の予言思想の一つで、釈迦の滅後1,000年を正法の時代、次の1,000年を像法の時代、その後を末法の時代と区分し、釈迦の教えが及ばなくなった末法には、仏法が正しく行われなくなり、世の中が乱れると予言されていました。その末法元年が我が国では1052年(永承7年)に当たるとされ、人々の間に不安が広まった。この時代は藤原氏の摂関政治が衰え、それに代わって武士が台頭しつつあった動乱期で、治安の乱れも著しく、仏教界の腐敗堕落も極限に達していた。つまり、末法思想と現実の社会情勢が一致しため、人々の不安は更に増大し、この不安から逃れるために浄土信仰が盛んに喧伝されるようになった。熊野とは「死者の霊の籠る所」という意味で、イザナミ命の埋葬地としても知られているように、古代の熊野は死後世界(黄泉国)の入口と考えられていた。それが浄土信仰の広まりにつれて、仏国浄土の入口へと変化していったのであろう。
熊野大権現とは熊野の山々に鎮まる神々の総称で、その中心が熊野牟須美大神(くまのむすびのおおかみ)、速玉之男大神(はやたまのをのおおかみ)、熊野家津御子大神(くまのけつみこのおおかみ)です。これらの神々と仏・菩薩の関係を下表に示すが、全て浄土と結び付いている。浄土は熊野灘の向こう、太平洋の彼方にあり、本宮・那智・速玉を巡ることで浄土を垣間見ることが出来るのではないか、そんな気持ちが人々を熊野に駆り立てたのであろう。
名称
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本地仏
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垂迹神
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浄土
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熊野本宮大社
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阿弥陀如来
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熊野家津御子大神(スサノヲ命)
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極楽浄土
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熊野那智大社
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千手観音
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熊野牟須美大神(イザナミ命)
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補陀落浄土
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熊野速玉大社
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薬師如来
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速玉之男大神(イザナギ命)
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浄瑠璃浄土
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この考え方を受け継いだのが時宗の開祖一遍で、一遍は本宮証誠殿(しょうじょうでん)の前で阿弥陀如来の啓示を受け、熊野護符を配りながら全国を遊行し浄土信仰を広めていった。熊野護符とは烏文字(からすもじ)で書かれた熊野の神札(おふだ)で、後世、武士の起請文としても利用された。熊野の神々の前では嘘はつけないということであろう。
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